【浄土真宗のお寺では、お釈迦さまを安置しないの?】

 先日4月8日はお釈迦さまの誕生日『花まつり』でした。全国各地においては、子どもたちや保護者、またご縁ある方々とともにお釈迦さまの誕生をお祝いされた寺院もたくさんあられるでしょう。
 浄土真宗の内陣には、お釈迦さまは安置していませんが、私たちはいつもお釈迦さまを拝んでいます。
 お釈迦さまが『仏説無量寿経』をお説きになるとき、その光輝くお姿を見られて、お弟子の阿難尊者が驚いて、わけを尋ねられます。その時、お釈迦さまは「私はこれから、いかなる人々も、お念仏ひとつで救われる、阿弥陀如来のお心を説こう」といってお話されたのが、『仏説無量寿経』です。
 お釈迦さまは、阿弥陀如来さまのお心を示すためにこの世にお出ましになられたと言われます。仏説無量寿経を出世本懐のお経と言われる所以です。そこで、私たちが阿弥陀如来さまにお参りするときには、お釈迦さまにもお参りしていることになるわけです。寺院でご本尊・阿弥陀如来さまの前にお仏飯を2つお供えするのは、阿弥陀如来さまとお釈迦さまへの感謝を表しているんですよ。

【正信偈ってなあに?】

 日常のお勤めや報恩講では、一般に「正信偈」を中心としたお勤めが行われます。ところで、「正信偈」とは、どんなお経でしょうか?親鸞聖人は、たくさんの書物をお書きになりましたが、その中で、最も大切な書物を一般に『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』と呼んでいます。正式名称を『顕浄土真実教行証文類(けんじょうとしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』といい、6巻あるのですが、その第2巻『行文類』の一番最後に7字×120句、合計840文字で浄土真宗のみ教えの要点をお示ししになりました。これが「正信偈」で「正信念仏偈」というのが正式名称です。
 本願寺第8代宗主・蓮如さまは、「正信偈」と『三帖和讃』を刊行して、浄土真宗の正式な勤行に制定されました。これによって、浄土真宗独自の勤行が初めて誕生しました。蓮如さまが、59歳の1473年3月のことで、場所は越前吉崎の御坊であったそうです

 <正信偈の全体> <正信偈の現代語訳>
 

【除夜の鐘はなぜ撞くの?】

 平成29年も早12月を迎えました。年末恒例、ユーキャンの2017流行語大賞に「インスタ映え」「忖度」やトップ10に「35億」などが選ばれ、年の瀬も近づいてきた感じです。年末年始における日本の仏教行事として行われる除夜の鐘。皆さんも毎年恒例で、どこかのお寺に行かれる方もおられるのではないでしょうか。12月31日の大晦日の夜、全国のお寺から除鐘の音が響き渡ります。撞く回数は、108回と言われます。なぜ108回なのかは諸説ありますが、一般的には煩悩の数と言われています。108の煩悩を一つずつ払い除いて新年を迎えるというのです。しかし、鐘を撞けば煩悩を払い除くことができる程、煩悩は甘くないですね。スケバン刑事に「煩悩をなめたらあかんぜよ」とでも怒られそうです。

 浄土真宗の除夜の鐘は、過ぎ去る一年の自分自身を振り返り、お念仏とともに新たな1年を迎えさせていただくために、撞かせていただきます。ですから、数はあまり気にしません。例年、住職と前住職とで108回撞いており、ときおりご近所の方も撞きにこられます。撞き終わった後に、参拝に来られた方があっても、撞いていただけます。あるお寺では時間で区切っておられ、総数は300回を越えられるそうです。朝を迎えそうですね。

 ところで、近年、都会の寺院では騒音が理由で、ご近所さんから鐘を止めてくださいと言われるお寺もあるそうです。ご門徒のみなさんが大切にされてきた行事が失われてきているのは寂しい限りです。鐘の音が止まないように勤めていきたいものです。

 <除夜の会ご案内>


 

【お彼岸ってなあに?

 「暑さ寒さも彼岸まで」と言われ、随分と過ごしやすくなっていきました。春秋の年2回、太陽が真東から昇り真西に沈んでいきます。そのことから空を赤く染めて山の彼方に沈んでいく太陽を眺めながら、帰るべき静かな世界を連想する人もおられます。
 「お彼岸」は、阿弥陀如来さまや先立っていかれて仏となられたご先祖のおいでになる彼方の岸、お浄土を表す言葉です。この世の人生を終えた後に帰っていくことのできる仏さまの世界を表す言葉です。
 そのようなことから、お浄土とは死んだ人に必要な世界で、生きている私たちには関係ないと思っている方もおられるかも知れません。

 そう考えておれるのならば、いささか不十分な気がします。

 島根県に浄土真宗のみ教えをこよなく愛した浅原才一さんという方がおられました。その方の残された歌に
 「才市どこが浄土かい  ここが浄土のなむあみだぶつ」があります。
 
 お浄土を「見た」ということがある人はいますでしょうか、誰も見たことはないでしょう。見たこともなく行ったこともない、地図にも載っていない場所について私たちが思うことは、本当にそんな場所はあるのかということでしょう
 私たちが今いる場所は地図でもわかるように、地球上の日本です。山口です。と言うことができますが、地図にも載っていない場所ですから、そんなところはあるのか、となるでしょう。
 しかし、例えば、みなさんが子どもの頃、家族でおじいちゃんやおばあちゃんの家に行くとき、その場所がどこにあるのか気にしたことがありますか?お父さん、お母さんと一緒におじいちゃん、おばあちゃんのところに行ける、いろいろ買ってもらえるし、楽しいところにも連れて行ってくれる。
 子どもが思うところは、どこにあるのかということは関係なく、自分にとって嬉しいかどうかという思いであり、つまり「場所」ではなく「働き」としてとらえているのです。子どもにとって知らない場所であったとしても、それはどこにあるのかという「場所」として重要なのではなく、嬉しいか楽しいかどうかの「働き」のほうがずっと大切になっているのです。
 同じように、お浄土もこの「働き」としてとらえることが大切なことなのです。どこにあるのかが重要なのではなくこの命を終えたとき、また生まれる世界がある、その世界があるからこそ、今私たちがいただいている命にとって大きな「働き」となるのです。

 私たちはいずれこの命を終えていく存在です。いつかは分かりません。そんな私たちだからこそ、お浄土について、聞かせていただくことは非常に大切なのではないでしょうか。

 新聞を読んでいましたら、最近は死んだ後のことを無と考えている方が多いようです。それは、それで一つの考え方ではありましょう。しかし、浄土真宗のみ教えを聞かせていただくものにとって、お浄土とは、先立たれて仏となった方々とまた会える世界でもあります。
 
 みなさんが、幸せだと思うことはなんでしょうか。人それぞれだとは思いますが、私は、家に帰ったときにお帰りと言ってくれる、そんな当たり前のようなことに、ほのかな幸せを感じています。「お帰り」と言ってくれない所に帰るのは、寂しいですね。

 最近は、娘が年頃になりまして、ときどき家に帰りますと妻と喧嘩をしています。私は勤務からつかれきって、そんな所に帰ると寂しい思いがします。そんなことを思いますと、昼間の私にとって、仕事が楽しければ良いというだけではありません。仕事が終わった後、家庭が充実していないと、昼間の勤務もどことなく、楽しい思いはいたしませんし、逆に家庭が充実していれば、昼間の仕事を安心して行うことができます。みなさんは如何でしょうか?

 さて、この人生を昼間だと考えますと、そういった私たちに対して、間違いのない「いのち」の帰る場所をご用意くださったのが、阿弥陀如来さまであります。分け隔てなく、誰にとっても安心して帰れる場所を用意することが、本当の親心とも言えるでしょう。

 私たちが生きているこの世界は諸行無常と言われ、すべてのものは移り変わります。そんな世界において、阿弥陀如来という仏さまは、私たちが歩む人生は、うまくいくときも、うまくいかないときもある。煩悩を抱える私たちは、みんなお互いに悩みながら歩んでいく人生。だからこそ、あなたの本当の居場所を用意せしめようと願われ、完成してくださったのがお浄土であります。私の方ですべて用意しておるからね、安心してこの人生歩んでほしいと、働きかけてくださってあります。

 

【お仏壇のお飾りは、どうすればよいの?】

 お仏壇のお飾りを荘厳と言います。お浄土の素晴らしさを表したもので、お寺の本堂の内陣を小さくしたものが、私たちの家にあるお仏壇だと考えてもよいでしょう。お仏壇の荘厳を自己流でされている方が案外多いようですが、わからないことがあれば、お気軽に明専寺に聞いてください。
 さて、そのお仏壇への日常のお供えは、お花(華)・お香・お灯明・お仏飯です。浄土真宗では、水やお茶などは供えません。ご命日やご法事のときには果物やお菓子などの「お供物(くもつ)」も備えます。
 お花は、「お仏壇用のお花」として売っているものに限らず、庭にある四季折々の花をお供えするのも良いですね。ただし、毒や悪臭、トゲのある花は避けましょう。
 お線香は立てずに、香炉の大きさに合わせて、2、3折してお供えします。ご法事などの時には、抹香(粉末状)を用いましょう。香炉に火ダネを入れて少量ずつお供えします。
 お灯明(ろうそく)は、白・赤(朱)などがあり、法要によって使い分けます。
 お仏飯は、炊き立てのご飯を仏飯器に盛り、お供えします。お供えしたお仏飯は早めにさげて、「おさがり」としていただきます。お仏飯をお供えする意義は、まず最初に仏さまにお供えし、食べ物に恵まれた感謝をしめすことです。お仏飯を供えたり、花を活けたりすることを「お給仕」と言います。
 お仏壇は、仏さまを安置し、家族のよりどころとなる所です。いつも美しく保つように心がけ、日々のお給仕は、感謝の心をもって行いたいものです。

 もっと詳しく知りたい方は【ご参照:浄土真宗本願寺派 勤式指導所HP

【お盆ってなあに?】

 お盆という仏事は、お釈迦さまの説かれた「仏説盂蘭盆経」という短いお経が由来となっています。そのお経には次のようなことが説かれてあります。
 お釈迦さまのお弟子の一人で「神通第一」と言われる目蓮尊者という方がおられました。大変親孝行な方で、亡くなった母親がどこの世界にいるのか、神通力を使い探していたところ、なんと仏教でいう迷いの世界の一つである「餓鬼道」に落ちて苦しんでいるのを見つけられたそうです。餓鬼道という世界は、食べ物を口元に運んでもその直前ですべて炎となって消えてしまい、空腹感が満たされず苦しみ続ける世界のことです。
 何故、目蓮尊者のお母さんが、餓鬼道に落ちたのかというと、生前我が子・目蓮を愛しすぎたために、他の人にかまわずに、罪を犯してしまい、この世界に落ちてしまったと言われています。
 どういうことかと言いますと、目連尊者の母親は、生前、物乞いをしてきた他の人に、「それは私の子どもに食べさせるものですので、あなたには差し上げることができません」と、何につけても子どもを優先し幾度となく他人をないがしろにされたそうです。
 目蓮尊者は、母親が餓鬼道に落ちていたことに大変驚き、何とか母を救い出そうとし神通力により食べ物を差し出そうとしますが、口元まできたときに、すべて炎となって燃え尽き、救うどころか逆に、お母さんの苦しみが深まるばかりであったと言います。
 そこで、目蓮尊者はお釈迦さまに、どのようにすれば母を助けられますか、と救いを求めますと、お釈迦さまは「7月中旬、雨季の修行を終えた僧侶らに母親を供養する盛大な法要を営んでもらい、その後、僧侶に対して敬い・感謝の心持ち、施しを与えなさい。さすれば母親は救われるだろう」と説かれたと言います。
 その後、目連は言われた通りに実行し、母親は餓鬼道から救われていったというお話です。このお話をもとに、新暦となる8月にご家庭などに僧侶を招き、法要を勤めるようになったと言われています。
 それでは、仏説盂蘭盆経のお話は、私たちに何を示しているのでしょうか?
 一つは、人は仏法によって、本当に救われていくのであるということを示されており、仏教の三宝(仏さま・仏さまの説かれたお法り・お法りを大切にする方々)への敬いの心に持ってほしいということ。
 もう一つは、優しいと思われる目連の母親であっても餓鬼道という世界に落ちていくということは、私たち全ての人間が餓鬼道に落ちていてもおかしくないという日々を実のところ送っているのだということ示しています。この目蓮尊者のお母さんは、他人のことではなく、私たちの姿でもあります。良かれと思って行っていることであっても、知らないところで他人を傷つけたり、犠牲にしたり、さらには他の尊い命を大切にしなければならないと思っていても、他の命をいただいてしか生きられないのが私という存在なのではないでしょうか。
 
 そのことを日常私たちは忘れがちでありますからこそ、このお盆の時期に、自らの日々の生き方を顧みて、浄土に往生した亡き方をご縁として、私自身が仏法をいただくことが、浄土真宗のお盆の大切な意義であります。
 亡き人を偲びつつ、それをご縁として仏さまのみ教えに出会えたならば、大切な故人が餓鬼道や地獄に落ちている訳でもなく、また、この世とあの世をうろうろしているような、不確かな存在ではないということが自ずからわかることであります。
 浄土真宗におけるまことのお法りとは、阿弥陀如来という仏さまの願いにより、私たちは娑婆との縁つきたとき、おさとりの世界であるお浄土に生まれ、残された人々を常にあたたかくみまもり、導いていくような尊い存在とならせていただくことができるのです。
 改めて、お盆にご先祖のご遺徳を偲ぶとともに、阿弥陀如来さまのご本願のありがたさを感じさせていただき、ともどもに「南無阿弥陀仏」とお念仏を申しつつ、お浄土への道を歩ませていただきたいと思います。


【浄土真宗は他力のみ教え】

 お寺に勤めていますと、私は参拝者の方から、修行大変ですねと言われることがあります。このように質問される方は、仏教は修行する教え、お坊さんは修行する人、というように考えておられるのだと思います。
 仏教には、大きく分けると2つの教えの流れがあります。
 その一つは、自力によって煩悩をなくし、清らかな心になって仏のさとりを開こうとするみ教えです。自力というのは、自分の体力・知力・気力などを頼りにし、それによって身につけたものを頼りにすることです。それには、天台宗・真言宗・禅宗・日蓮宗などがあります。
 親鸞聖人も比叡山で20年間天台宗の修行をされました。当時の親鸞さまは、"仏教とは、自力によって修行し、悪をやめ善を行い、心を清らかにして、仏の智慧を身につけ、苦を超える教えである。"と信じて、自力の修行に励まれてたものと思われます。自分の体と心を頼りにし、すべてをあげて修行に励まれました。しかし、どれほど修行をしても、煩悩をなくし、清らかな心となり苦を乗り越えることのできない自分に気づき、自力に絶望されたのです。
 親鸞さまは、自分の進むべき道を六角堂の救世観音に仰がれます。お参りをされはじめて95日目に、聖徳太子のお告げにより、法然聖人のもとに行かれたと、言われています。
 仏教のもう一つの流れは、親鸞聖人がその法然聖人より受け継がれた教えです。それは、私の救いは、すでに如来によって用意されているというものです。それは他力によって救われていく教えです。他力の「他」というのは、阿弥陀如来のご本願、誓い、強い意志ということです。「力」というのは、はたらきを言います。すべての人の人生にそって一人ひとりを苦から解放し浄土のさとりを得させようとする如来の大きな願い・ご本願がはたらいている。そのはたらきを信じ、そのはたらきにまかせた時、われわれは救われる身となるのです。
 本願寺第8代宗主・蓮如上人は「仏法は聴聞にきはまることなり」とお示しくださっています。浄土真宗のみ教えを仰ぐものは、阿弥陀如来さまのお働きを「きく」ことが大切であると述べてくださっています。
 ところで、私たちの生活でも人の話を「きく」ということ、大切にしなければならないことですね。阿弥陀如来さまのお姿をよ~く見てください。私たちの苦悩をもらさずきくために、耳が大きくなっておられるんですよ。

 

【御文章ってなあに?】

 『御文章』は、本願寺派第8代門主・蓮如上人(1415~1499)が浄土真宗のみ教えをわかりやすく伝えるために記されたお手紙形式の法語です。現在では、ご葬儀の際などに「朝には紅顔あって」と拝読される白骨章が有名ですが、その総数は250余通にも達し、蓮如上人ご真筆は50余通現存しています。本来、『御文章』は、ご門徒の求めにこたえて書かれたもので、読み聞かせることが主でありましたが、中には掛け軸に仕立てて、ともに味読する場合もありました。
 御文章の一つをご紹介させていただきます。この聖人一流章のご文章は、現在ではご法話などの後に拝読し、浄土真宗のみ教えの肝心な部分を抑えるために拝読されます。

【聖人一流章〕
 聖人一流の御勧化のおもむきは・信心のもって本とせられ候、そのゆえは・もろもろの雑行をなげすてて・一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として・仏のかたより往生は治定せしめたまう、その位を・一念発起入正定之聚とも釈し、そのうえの称名念仏は・如来わが往生を定めたまいし、御恩報尽の念仏と・こころうべきなり、あなかしこ あなかしこ

(現代語訳:大意)
 親鸞聖人のひらかれた浄土真宗のみ教えでは、信心が根本です。そのわけは、自力のはからいを捨て、一心に阿弥陀如来に帰命すれば、思いも及ばないすぐれた本願の働きによって、如来が私たちの往生をさだめてくださるからです。往生が定まったその位を「一念発起入正定之聚」と示されています。そして信心を得た後に称える念仏は、如来が私の往生を定めてくださったご恩を報じる念仏であると心得るべきです。


【お経ってなあに?】

お経は、お釈迦さまのご説法を文字に表したものです。昔のインドには、文字に記すという文化がなく、お弟子たちは、皆んな説法を暗記していました。お釈迦さまが亡くなられた後、それぞれが記憶しているご説法を整理し、正確を期すということが行われました。やがてそれが文字化されるようになったのです。後に、お経は中国に運ばれて翻訳されて、それが日本にもたらされました。

お経という言葉には、たて糸という意味があります。ピンと張ったたて糸が、しっかり横糸を支えて美しい布を織り上げるように、お釈迦さまは、時代を貫き、人びとの心の依りどころとなる、真実の法をお説きくださったため、お経と言います。お釈迦さまは、生老病死を越える道をお説きくださいました。その言葉がたくさんのお経にまとめられましたが、中でも『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』に説かれる、お念仏による救いを明らかにしてくださったのが親鸞さまです。

また、お経は、鏡であるとも言われます。曹洞宗の開祖である道元禅師は、「仏道をならうというは、自己をならうなり」という言葉を残しておられます。仏への道・さとりへの道を学ぶということ、つまり、仏教を学ぶということは、他の誰でもなく、自分自身を学ぶということなのです。仏教を学ぶとき、このことを常に心に留めておきたいものです。

【お焼香ってなあに?】

焼香とは、お香を仏さまにお供えすることです。これを供香と言います。お香をお供えするというのは、仏さまをお敬いするときの、最高の作法です。仏さまは、お香を供えられると、すぐに"お下がり"をくださいます。香炉にくべられたお香の香りは、すぐに会場全体へ広がっていくのです。それは、仏さまからいただいた香り、お浄土からの香りです。仏さまからいただいた分けへだてないかぐわしい香りは、仏さまのお徳を象徴するものです。ですから、お香は、いい香りのものを選んで使いたいです。

ちなみに、明専寺住職の子ども3人の名前には、みんな「香」の字が入っています。〔長女:苺香(まいか)・次女:星香(せいか)・長男:香俊(きょうしゅん)〕

 【お葬式ってなあに?】

人がなくなったら、お葬式をするー人間は太古の昔から、葬送の儀礼を営んできました。それは、人の"いのち"に対する畏敬の念での表れであります。
お釈迦さまは、四苦ということを説かれました。生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)という人生における4つの根源的な苦しみです。私たちは、この世に生を受ければ、いつか必ず死んでゆかなければなりません。私たちは、ともするとこの現実から目をそむけようとしがちです。でも、お釈迦さまは、その苦しみと真正面で向き合い、それを越えていく道をお説きくださったのです。「往生浄土」という言葉を聞いたことはあおりでしょうか。浄土真宗では「死ぬ」と言わずに、「浄土に往生する」と表現します。死んで無に帰するのではなく、暗い冥土に行くのでもなく、阿弥陀さまのお浄土に往き生まれさせていただくのです。そして私たちは、お浄土に生まれると、ただちに仏とならせていただきます。
亡き人を「お浄土に往生して仏さまのいのちを授かった方」といただくとき、自然にお敬いの心、報恩感謝の思いが湧いてくるのではないでしょうか。ご縁が深ければ深いほど、悲しみは尽きませんが、また仏さまとして私たちを見まもってくださっているという、あたたかな心で、お葬式が行われるでしょう。浄土真宗をいただいた方々のお葬式とはこのようにありたいものです。

【本尊ってなあに?】

本尊とは、「本当に尊いということ」です。親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」をご本尊として生きられました。
さて、自分の人生にとって本当に尊いことは何でしょうか。私たちは、何を大事にしながら生きているでしょうか。生きる意味や価値をどこに見出そうとしているのでしょう。私たちは、人生でさまざまな出来事に出会い続けます。その出来事に振り回されながら生きている私たちにとって、どんな状況になっても生きていける支えは何でしょうか。私の生き方は、生きることの支えとなってくれているような「何か」を大事にする生き方であったろうか。そういったことに目を向けること、大切なのではないでしょうか。